あなたは、この高岡市に富山県内でも唯一の皇族陵があるのをご存知でしょうか?
それが高岡市二塚にある恒性皇子御墓です。恒性皇子は鎌倉時代末期、後醍醐天皇の皇子として生まれました。
倒幕計画に関わった罪で越中国射水郡二塚(現高岡市二塚)に流され、元弘3年(1333年)5月10日(現在の暦で6月30日)、この地で29歳の若さで命を落としたと言われています。
ここで大事なのは6月30日が皇子の命日という事です。
偶然にもこの日は高岡市長選挙が終わった翌日。新たな高岡市の第一歩が始まるという、記念すべき日と同じなんです。
市民の多くが「チェンジ」を選び、出町氏という“外から来た人”が新市長に選ばれた。これは、外(都)から高岡に落ちて来られた皇子が、地下から何らかの力を発揮された結果なのでは・・・
と、私などは思ってしまいます。
でもこの変化、当然ながらそうしたスピリチュアルな理由で起きたことではありません。現実的に少しずつ、日々の暮らしの中で、高岡市民一人ひとりが「まちを想う気持ち」を募らせてきた結果だと思うのです。
思えば恒性皇子も、自らの生き方を通して「まちを想う心」を遺してくれました。もちろん、流罪となったこの地で皇子が一体どんな事を思い、どんな日々を送っていたのかという「実際の所」というものは全く分かりません。
しかし。
きっと「都とは全く違う風景」の中で、「地方の人々の暮らし」を目の当たりにし、静かに何かを感じておられたのではないかと思うのです。
恒性皇子の御墓は、時代を経て今も整然とした姿で残されています。その姿を見ると、誰かがずっとこの場所を想い、守り続けてきたという歴史の重みを深く感じる事が出来ます。
「まちを思う」というのは、何か大きなことを考える事では無いと思います。
日々の生活や商いの中で、それぞれが「自分に出来る事」を実践する。その上で「更にまちが元気になるにはどうすれば良いのか」を考える。
その少しずつの積み重ねが、やがて大きなうねりを生む。そんなことを、恒性皇子がそっと教えてくれた気がしました。
で、私に何ができるのか?ですが。
結局私は中古住宅を扱う「商人」にすぎませんから、「家を再生し、人の営みに寄り添う」ことしかできません。
結局それだけなんですが、しかし私は約束します。
どれだけ時代が変わろうとも、私の商いの中には必ず「真摯さ」を宿し続ける事を。
ということで、私はこれからも真摯に働き続けますよ。
恒性皇子の、名にかけて。
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