かつて、富山・石川の地に大きな風が吹いた事がありました。 時は鎌倉時代の直前。寿永二年(1183年)の夏。 都から遠く離れたこの地に、歴史上の大きな分水嶺が刻まれたのです。
その頃の日本を制圧していたのは平家。この政権は、その時すでに頂点にありました。 「平家にあらずんば人にあらず」とまで豪語していたその勢いは、 民の声よりも、自らの体制維持を優先させる方向へと進んでいました。
そんな中、一人の武将が地方から頭角を現します。 その名は、木曽義仲(推定37歳前後)。 中央のしがらみから距離を置き、独自の道を歩んできた人物です。
義仲は「中山道」ではなく、「北陸道」からの上洛を選びました。 これはあくまで戦略であると同時に、意思表示でもありました。 都にとっては“裏道”に見えたその道も、彼にとっては自らの歩むべき本道だったのでしょう。
当然、都は黙っていません。 平家は太政大臣・平清盛(2年前に死去)の孫である平維盛(弱冠25歳)を総大将とし、十万騎の大軍勢を北陸道に差し向けます。 まさに「数」で勝負しようとする構図。 しかしこの十万騎、実態はさほど統率の取れた軍ではありませんでした。
「数」が絶対的な勝因になると信じられていた時代、 その盲点を突くように、義仲軍は一気に攻勢をかけます。
舞台となったのが、富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠です。 この戦いの勝敗は、もはや語るまでもないでしょう。 平家は大敗し、以後、坂を転がるように凋落の道を辿ります。
私は2025年夏の参議院選挙を迎え、この歴史的事実を思い出していました。富山・石川で、また倶利伽羅峠の戦いのような、何か大きな出来事が起こるのではないかと。
中央からの支持と組織の支援。 それに対する、地道な行動と現場の声。 もちろん現代は戦国の世ではありません。 勝敗は静かに、しかし確実に判明します。
なお、義仲の軍には、巴御前という女性武者がいたと伝えられています。 戦場に立ち、弓を引き、馬を駆ったその姿は、時代を越えて語り継がれています。
いつの時代も、女性パワーを侮ってはいけないという事ではないでしょうか?
そして私は、ふとあの一節を思い出します。
「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」
すべての栄華は、やがて枯れ、そして散っていく。
「平家にあらずんば人にあらず」とまで豪語し、油断しきっていた平家一門が、倶利伽羅峠の戦いを機に、急激にその勢いを失っていったように。
しかし、それは敗北ではありません。
新たな時代の誕生に過ぎないのだと思っています。まさに、諸行無常。
・・・
さて、今回の選挙戦。倶利伽羅の風は果たして「誰に向かって」吹くのでしょうか?
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