先日(令和八年二月三日)、節分の夜。
ベランダに出て、月を見ていました。
月は十六夜。
雪もなく、雲もない。
静かで、淡く、優しい光でした。
その光の下で、
ひとつ決めたことがあります。
自分の名前を、本来の形に戻すこと。
「高野」から「髙野」へ。
これまで「高野」と名乗ってきた理由はいくつかあります。
“高”のほうが一般的で、読みやすい。
パソコンやケータイで打つと、文字化けする事があった。
そして姓名判断では、そちらの方が良しとされていた。
つまり、私はこれまで50年に渡る人生を“高野”として生きてきました。
それを、この節分の夜に“髙野”へ変えたのです。
なお、戸籍上はこちらが本来の字なので、正確には「戻した」になるんです。
いや、戻したというより、ある理由によって”磨いた”んです。
もともと私は、あまり喋るほうではありませんでした。
一人で静かに過ごす時間が好きでした。
しかし、不動産業界という舞台で仕事を続けるうちに、
言葉数が増え、
状況に合わせて、自分主導で喋らざるを得ない場面が増え、
気づけば“喋る人”になっていました。
節分の夜、月を眺めながら、
ふと思ったのです。
「喋り過ぎやろ」と。
「うるさいやろ」と。
「もういいやろ」と。
だから名前から“口”を一つ減らしました。
“高”には口が二つ。
“髙”には口が一つ。
口がひとつ減った代わりに、
そこに梯子の形が現れます。
その梯子が、十六夜の月へ伸びていくような気がしたのです。
これからは、
言葉で答えを作るより、
静かに待とうと思います。
外の気配を聞き、
流れを感じ、
答えが浮かんでくるのを待つ。
そのほうが、
今の私にはしっくりきます。
あの十六夜の光は、
私にとって“五十回目の節分”の節目に下りてきた
ひとつの奇跡の光でした。
私はそう解釈しています。
その光の中で、本心から思いました。
「私の前半生は、本当に終わったのだ」と。
十六夜は満月の次の月。
少し欠け、静かに下りていく月です。
「今日が、私にとっての十六夜なのだろう」
そう自然に思えました。
ここから少しずつ欠けていくんです。
しかし、それで良いのです。
満ちれば、欠ける。
欠けて消えてしまっても、やがて新しい光が生まれる。
それが、巡りというものです。
「五十歳なんて、まだまだこれから」と
言ってくださる方もいます。
けれど、満ち欠けの時期は人それぞれ。
私にとっての満月は、もう過ぎています。
だからこれからは、静かに、淡く、優しく。
あの夜の月のように。
そう生きていこうと思います。
そしてもし、あの節分の日が“私にとっての十六夜”だったとすれば──
後半の季節は、あと約五十年。
・・・
な、長いっすね・・・
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