いずれも敬称略で申し訳ないのですが、本日の北日本新聞朝刊の『新春住宅特集』にてちょこっと登場させていただきました。
日頃思っている事の『17%位は』表現させていただけたかなと思います。が、それはある意味どうでも良くて。
記事に合わせて広告を出したんですが、その紙面のメイン記事が『司馬遼太郎生誕100周年』という内容だったんですよ!
私が『まともになっていった』キッカケを作ってくれた作家、それが司馬遼太郎です。最初に読んだのが本日の朝刊でも紹介されていた『竜馬がゆく』で、高校3年の夏休みでした(17歳)。
その後、燃えよ剣・世に棲む日々・関ケ原などのメジャー所を続けさまに読みました。大学受験だったのでそんな事をしているヒマなど無い気もしましたが、「歴史を読むと言う、これ以上の勉強があるだろうか?」と思ったのも確かです。
実際、どんな勉強よりもこの『10代の頃の』読書経験が役立っている気がしています。
司馬遼太郎と言うと、なんとなく『分かりやすくて単純(に割り切り過ぎている)』というようなイメージもあるかも知れませんが、それで良いじゃないですか。難解で晦渋なモノが良いとは思いません。
ソフトバンクの孫さんだって『竜馬がゆく』を読んで目からウロコが落ちたと明言してますしね(ただしこちらは15歳)。
17歳で読んだ私と15歳で読んだ孫さん。この2年の差が私と孫さんの違いなんでしょうな。
冗談ですよ。
しかし本当に、10代の多感な時に読むには打ってつけなんですよ。他の方の10代がどうかは知りませんが、私の10代なんて『ほぼ気絶状態』でしたからね。何も考えていない。何も見えていない。何も気付いていない。
しかし『竜馬がゆく』を読んで能動的に考え、自発的に行動するようになったわけです。
・・・多少は。
と言う事で、私にとって司馬遼太郎という作家は『人生を変えてくれた』偉大な作家なわけですが、年を重ねると「そうは言ってもさー、彼らは特別だからねえ。」と思うわけです。
彼らとは?
坂本龍馬とか、土方歳三とか、高杉晋作とか、徳川家康とかの、いわゆる『偉人』です(偉人の定義は今回さておく)。
しかし待て待て待て。ですよね。ステイステイステイ。です。
同じ人間ですし、彼らだって悩む事はあった。いつも自信満々の判断をしていたわけではない。大事な事はその時々の悩みを『どう乗り越えて来たか?』では無いでしょうか。
歴史ってのはその辺の人間ドラマを『追体験』する事が出来ます。自分ならどうしたか?歴史上の、あの人だったらどう動いたのか?を考える機会にも。
と言う事で、私自身は司馬遼太郎生誕100周年の記事を読んで『初心を忘れるなよ』と言われた気分です。
今一度、自分の心を洗濯致し申し候。